2月18日 マルコ15章1節―5節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。 

 

「ポンテオピラトのもとに」

スピードが求められる時代。しかし、人の命に関わる裁判なら慎重に時間をかけてもいいはずです。その点、主の裁判は異例づくめでした。一夜の間に死刑が決議され、夜明けとともに総督のピラトに引き渡される手回しの良さ。まるで最高法院の後ろめたさを物語るようです。自分たちにとって厄介なことや、不都合なことは祭りの始まる前にさっさと処理がしたい。しかも自分たちが手を染めず、ローマの総督の手で死刑を引導して欲しい。

 

よく考えてみると、人はやましい時に限って急ぎたがります。早く早くとせかします。速攻で物事を決めようとする時に忘れがちなことはないでしょうか。自分は神の前に立ち止まっただろうか。み言葉の前に静まり、自らを振り返ってみただろうか。祈りの中で取り扱われてきただろうか。あるいは、自分勝手な都合を優先しようとして、大切なことを置き去りにしていることはなかったかどうか。レントです。自分の歩みを立ち止まる時にしませんか。

 

ピラトは問います。お前はユダヤ人の王か。これが最高法院の訴えでした。イエス様をローマ帝国に対する革命家か反乱の先導者であるかのように仕向けたいわけです。主はこれに対して「それはあなたの言っていることです」と答えるに止めます。確かに主は王なのです。しかし、それはこの世の王でありません。主が王であるとするなら、総督であれ、誰であれ、この方の前にどう生きるかが求められる。問われているのはむしろ私たちなのです。

 

私たちも主に問いかけます。もっとも根源的な問いはイエスとは自分にとって何者なのかという問いでしょう。しかし、その問いに対して主はじかにお答えにはなられません。むしろ、あなたはどう思うのかと鋭く問い直して来られるのです。問うている側が問われる立場にいつの間にか置かれている逆転が起きる。誰であれ、この方の前に真剣に実存をかけて答える必要があります。わたしはこの方とどう関り、どう生きようとするのかを。

 

ローマの裁判では不当な証言に対しては、弁明する権利が認められていました。その発言で無罪を勝ち取ることもできました。しかし、主はここで何もお答えにならず、ひたすら沈黙を貫かれます。まるで自ら有罪判決を求めるかのような姿です。ピラトが不思議に思うのももっともです。これはイザヤ書53章に描かれた苦難のしもべと重ねられた姿でした。多くの人の罪を背負うしもべ。主が王であるとはまさにこのしもべの姿においてなのです。

 

キリスト者も、黙って自らの十字架を背負います。権利を主張することなく、喜んで犠牲をいといません。もちろん、多くの人にとってそういう生き方は愚かで理解できないものかもしれません。ピラトのように不思議に思われるかもしれません。しかし、そのような姿は必ず誰かの心に焼き付けられ、神の栄光があらわされることになるでしょう。レントキャンドルの最初の灯りが消えます。静かにもう一度、我が身を振り返る時にしましょうか。