2月25日 マルコ15章6節―15節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。 

 

「一点集中」

主の裁判の場面を読んでいます。判決を言い渡す立場の総督ピラト。彼にはイエス様が死刑に値するとはどうしても思えなかったようです。祭司長たちが主を引き渡したのは、妬みのためであると見抜いていたからです。確かに宗教家たちは民衆がイエス様のほうになびいていくことを快く思っていませんでした。主の人気へのジェラシー。心の中にある嫉妬の感情に駆られるようにして、イエス様を亡きものにしようとしているわけです。

 

しかし、誤解しないようにしましょう。ピラトが特別に高潔な人物だったから妬みの感情に気づいたのではありません。善意の人は人の悪意にはかえって鈍いものです。蛇の道は蛇と言うではありませんか。ローマの権謀術数渦巻く権力の中を生きてきたピラトのことです。自分の心の奥にもある妬みの心に思い至ったとしても決して不思議ではないのです。妬みの気持ちとは誰の心の中にも潜み、時に牙をむく厄介なものなのです。

 

ところで祭りの時期には投獄された暴徒をひとりだけ釈放する習慣がありました。征服者の一種の懐柔策です。ピラトはこの機会にイエスを赦すように提案します。しかし、祭司長たちに扇動された民衆は、バラバを赦して、イエスを十字架につけるように要求するのです。バラバは政治犯でした。きっとローマの兵隊のひとりでも傷でも負わせたくらいの過去はある。自分たちの要求を叶えないイエスよりは、バラバのほうがましだと言わんばかりです。

 

考えさせられます。人はどこまでも自分の要求にこだわります。自分の願望。自分の思い。自分のリクエストの実現。どれだけ一時期、ちやほやしていたとしても、自分の願いが叶わないとなれば、まるで手のひらを返したように残酷にもなれる罪。そもそも人生の方向性が間違っているのです。そういう中、イエス様はひたすら沈黙を守りながら、ただ神の思いだけが実現することだけに、すべてを集中しています。

 

もちろん、ここではピラトも群衆も、祭司長もそれぞれに責任があります。しかしピラトを含めてここでは誰一人として主体的に自分を生きようとはしていません。嫉妬に流される者。扇動に操られる者。民衆の人気取りだけを伺おうとする者。民衆を満足させようとしてとある通りです。誰もが人を見ている。人に気を取られているうちに自分の立ち位置を見失い、人生が絡めとられていく。昔も今もこれが人の姿なのだと浮き彫りにされていくのです。

 

主体的に責任をもって生きるとは、どういうことなのでしょう。神からの呼びかけに対して真剣に応答することこそ責任ある自己です。賜物が与えられたなら、その賜物を用いることもそうでしょう。立場が与えられたなら、その立場で人に仕えることもそうでしょう。人目を気にせず、恥にも耐え、ひたすら神の意志に従いゆくことだけを貫かれた方がここにおられます。レントです。もう一度、神の前に自らを捧げる機会としませんか。