3月4日 マルコ15章16節ー20節

 「彼は侮られ」

 受難物語を読んでいます。読んでいてつらくなる場面が続きます。主の処刑はまず、鞭打ちから始められました。これは民衆からも見えるところでなされる一種の公開処刑でした。鞭の先には金属や生き物の骨がつけられていて、何回打つとは決まっていませんでした。あまりもの激しい痛みのために鞭打ちだけでいのちを落とす者もいたほどでした。主は肉体的に凄まじいほどの暴力をその身に受けられました。肉は裂け、血が流れ出ていたでしょう。  

 

 イエス様はここで何を思われていたか。不思議に聖書は何も記していません。ただひとつわかるのはこの肉体的苦しみが代償であって人類の贖罪につながるのだという信仰でした。肉体の救いのために肉体が傷つけられる。私たちは救いを単に精神や霊魂の次元でだけとらえてはいけません。この肉体が罪を犯す以上、神は私たちを肉体事全存在ごと救おうとして、イエス様を与えて下さった恵みを感謝せずにはおれないのです。 

 

 鞭打ちの後、兵士たちは総督官邸の中にイエス様を連れていきます。この兵士たちは非常時に備えて召集された者たちで、基本的には現地調達でした。周辺のシリアなどの者もいたでしょう。その部隊を全員、呼び集めたというのですからご丁寧なものです。肉体を傷つけた後、今度は精神的に集団でなぶりものにしようと言う魂胆でした。言ってみれば集団リンチです。死刑を言い渡された者は、もはや何をされてもいい状態に置かれるのです。 

 

 兵士にしてみたら、ユダヤ人の王である罪状を持つ男が相手です。ユダヤ人への日ごろの恨みや、嘲りが、イエス様にすべてぶつけられていきます。王を象徴する紫の衣を着せ、茨の冠をかぶらせ、ユダヤ人の王万歳と愚弄し、王様ゲームに興じます。彼らからすると格好の暇つぶしとも言えますし。彼らが特別冷血な人間だったわけではありません。人間とは条件さえ整うなら誰だってどこまでも残酷にも、非情にもなれるものなのです。 

 

 残念ながら、現代社会では尊敬されるよりも、むしろ軽んじられる体験のほうが多いでしょう。馬鹿にされ、嘲られ、時に存在を根こそぎ否定され。しかも、そう扱われることに慣れていく自分がいないわけではない。もしも自分がそのようなひどい仕打ちを味わった時には生きるつらさの中で思い出したいのです。それよりも低いところで、主が屈辱を味あわれたことを。精神的な意味でも肉体的な意味でも。そこに私たちの慰めがあります。 

 

 もしも、屈辱に耐える力があるとするならば、高い志を持って生きていることです。誰にも奪われない尊厳が自分にはある。何にも代えがたいものに自分は支えられている。神に愛されている実感が生きる力を切り開いていきます。しかし、高い志というなら改めて考えてみてもいい。あるいは自分も誰かの尊厳を知らず知らず奪ってはこなかったか。何かを辱めてはこなかったか。誰もが人が人として生きるために。十字架のこの方を仰げ。