3月11日 マルコ15章21節ー32節

「背負う」

  恥ずかしかったに違いありません。クレネ人シモンのことです。わけもわからずいきなりイエス様の十字架を代わりに背負わされて。彼は現在のアフリカ、リビアの郊外に住むユダヤ人。祭りのこの時期、たまたまエルサレムに来て、早朝、奇禍にあったのでした。そこにいたのは偶然です。野次馬のように死刑囚の刑場送りを見ていただけ。しかし泣く子も黙るローマ兵の命令に誰が逆らえましょう。汚れ仕事をした後では念願の祭にも参加できず。

  

 私たちの人生も意外な形で主と出会います。恥をかかされ、嫌な仕事を押し付けられ、損な役回りを任ぜられ。選択肢すら与えられない理不尽。人生はそんなことだらけです。しかし実はその体験こそが主との出会いの場になるかもしれない。それどころかその貧乏くじが主と誰かのお役に立っていることもある。やがてわかるでしょう。実はわたしは光栄なつとめに選ばれたのだと。シモンと家族にとってこの恥が救いの原点の証しであるように。

 

 どう考えても十字架を負うとは恥ずかしいことなのです。当時の考えから言ってもこれが救いにつながるとは到底思えないほど。実際、通りかかった者は主をののしります。十字架から降りて自分を救えと。祭司長らも嘲ります。自分自身を救えないイエスよと。どうも、彼らの思っている救いとは、十字架から降りることを指すようなのです。広げていくなら、嫌なこと、つらいことから解放されることを指して救いと呼んでいるようにも映ります。

  

 日本風に言えば、無病息災、家内安全、商売繁盛。こういうものが救いだと言わんばかりです。そうなのでしょうか。苦しみのある人生は、痛みのある生活は、解決のつかない問題を抱えて生きる者には救いが実現していないとでも言うのでしょうか。そうではない。罪ゆるされ神の子とされた者は、背負わないといけない課題も困難もある。しかし、苦しみを背負うことが、実は主の働きの一端を担ぐ恵みであった証なら幾らでも語って見せましょう。

  

 イエス様の十字架の場面は拍子抜けするほど素っ気ない。それからイエスを十字架につけた。たったそれだけです。一方で十字架のそばでイエス様の着物がくじ引きで分け合われていたと描かれます。明日の生活の心配をし、食べることにあくせくしている人々。喫緊の生活の困窮を抱える者には、当座の生活の安定こそが救いだと勘違いを起こしやすい。苦しみや困難を回避することこそ救いなのだと。そういう考えなら現代人も思い当たりそうです。

  

 主は決して苦しみを回避しようとはなさいません。没薬をまぜたぶどう酒とは今でいう麻酔です。主は麻酔さえご自分の意志で拒まれます。この苦しみを全身全霊で真正面からごまかさず引き受けないと意味がないのだという信念で、苦い杯を飲み干されます。神の子のそんな深い意図を知ってか知らずか、誰もが信じません。まさか、こんなところに自分の救いがあろうなどとは。ここにあるのは惨めな敗北にすぎないではないかと。 

 

 レントです。私たちは改めて思いめぐらしたいのです。わたしにとって救いとは一体なんなのかを。単に表面的な幸福を追求するだけなら、教会の屋根に十字架などいらない。しかし、救いの価値に目が開かれ、神のなさった驚くべき恵みに心震える者なら、決して避けてはいけない。自分が背負わないといけない課題にも痛みにも困難にも恥にも。あなたはやがて気づくことでしょう。この重みが実は神と人に役立つとんでもない恵みであったことに。