3月18日 マルコ15章33節ー41節

本日は機材の故障にて説教の音声はありません。

「人と神に捨てられる」

  さてレントが深まってきました。今日はイエス様が十字架で死なれる場面です。イエス様の死に限らず人間はいつ、どこで、どのようにして死ぬか分かりません。出来るだけ人の世話にならないで死にたいという話も聞きます。ピンピンコロリと大往生で死ねたらいいのでしょうが、それも分かりません。

 

  今なお迫害で死んでいくクリスチャンの数は年々増えていると聞きます。日本でも150年前にキリスト教への迫害があって、多くのクリスチャンが死んでいきました。死ぬ前には賛美しながら、祈りながら死んでいったという記録が残っています。そういう死に方を見て、クリスチャンではない方が信仰に導かれたということもありました。その死にざまはまさに大往生とも言えるのではないかと思います。

  

 そう考えると34節「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたのは何か納得出来ない死に方です。これが最後の言葉です。弟子たちに残していった遺言です。いや弟子たちだけではなく、今を生きる私たちへの遺言でもあります。賛美しながら、祈りながら死んでいったなら、イエス様に見習いたいと思います。しかし何か情けない、本当に救い主の死に方としてふさわしいのかと頭をかしげてしまいます。

  

 現代は孤独感や疎外感を感じて生きている方々が多いと言われています。それは隠れた流行病とも呼ばれています。人間は生まれる時も死ぬ時も一人です。そういう意味では孤独です。イエス様の最後は神様に見捨てられた感満載の死に方です。一般的に死にざまは生き様を表すと言います。その人の人生の凝縮が死んだ時に表れるという意味でしょうか。そうなるとますますイエス様の最後の言葉はクリスチャンにとって理解出来ない言葉です。

  

 しかし同じイエス様の言葉を聞いて百人隊長は全く違う受け止め方をしました。39節「まことに、この人は神の子であった」私たちがその場にいたら、このような告白が出来ただろうかと考えさせられます。なぜ聖書もイエス様のことも知らない百人隊長は神の子だと言えたのでしょうか。それはイエス様がどんなに神様から見捨てられること、引き離されることに苦しまれていたか。どんなに神様を愛しておられたのか、ということが「神の子」であった証拠だと思ったのでしょう。

 

 私たちは人に見捨てられることを恐れ、人に媚びへつらいます。人を頼りにして、そのために正義を曲げてしまうこともあるかもしれません。人が当てにならないと思えば、お金に頼るということにならないでしょうか。神様に見捨てられても何の苦痛も、悲しみもないのです。日頃から神様に見捨てられることの本当の悲しみや苦しみを知っている人こそ、神様を深く愛している人ではないでしょうか。

  

 イエス様がこの言葉を語られたと同時に、神殿の幕が上から下に裂けました。イエス様は本当に罪人として断罪され、そのおかげで私たち人間は神様とフラットな関係になったのです。つまり二度と神様に見捨てられないのです。だから迫害にあっても確信をもって賛美しながら死ねるのです。私たちはイエス様に見習って、「わが神わが神」と神様と親しい関係を持ちましょう。聖書を読み、祈るだけでなく、み言葉に従うことで生きた神様を証ししていきましょう。