マルコ1章16節ー20節

     説教の音声はこちらからお聞きになれます。

            「呼ばれて」 

 

 イエス様はたったひとりで湖のほとりを歩いておられます。神の国は近づいたと宣言された直後なのにです。大勢の人が福音に応じたわけではなかったのです。洗礼者ヨハネの活動のような国をあげての熱狂は起きなかった。ヨハネが捕えられた直後の退潮ムードもあったのでしょう。み言葉はまるで空中にかき消されたようにさえ映ります。なんの変化もなく静かなものです。主の目は、召しに応じる者を平凡な生活のただ中に探しておられます。

  

 私たちは時々、勘違いを起こします。神の国は自分の生活の営みからかけ離れた非日常の中に訪れるのではないかと。違うのです。シモンとアンデレは漁師として網を打っていたのです。まさに仕事のさなかです。毎日の延長です。何も変わったことのない平凡な日々。主が訪れれば、何もかも一気に解決するわけではない。しかし気づこうと気づくまいと日々の営みのさ中に神の国はもう来ています。あなたに向けたあたたかいまなざしが注がれている。

 

  それにしても、主からの召しはいささか乱暴に映ります。人物査定も、面接試験も、適性テストもなく。ペテロたちもペテロたちです。こんな重要な人生の決定を即答してもいいのでしょうか。今日出会ったばかりの見知らぬ人についていってもいいのでしょうか。しかし、選びとはこういうものです。なぜ、神が自分ごときをお選びになられたのか。誰も説明はできない。有無を言わさない、ついてきなさいの言葉に圧倒されるしか人にはできない。

  

 この即決は神の国到来の緊急性に呼応しているのです。待ったなしです。旧約聖書では神は人間を釣り上げる漁師にたとえられます。それはあくまでも審判のためでした。しかし、イエス様の告知は違います。罪の海の中から人間を救いあげる漁師。一見、居心地のいい中にいる者を救いに導くのですから困難はわかっています。それでも主は同伴者を求めておられます。わたしといっしょに喜びも苦しみも、涙も充実感も分かち合う者はいませんかと。

  

 漁師の仕事は安定したものではありません。自然相手ですから、その日の魚の獲れ高次第なのです。しかし主に従いゆくことで安定が得られるのかというと違います。今まで以上に不安定になる。なぜそんな危険なことに賭けられるのか。それ以上の喜びが与えられるとわかった時に、です。安定の中でこぢんまりと生きたい誘惑は誰にでもある。しかし、主はそれを打ち破り、もっとすばらしい世界を見せてあげようと声をかけられるのです。

  

 当然、決断には犠牲が伴うことでしょう。実際、ヤコブとヨハネは家族や雇い人を置いて、主におともします。犠牲を引き受けるか否かは結局、福音の価値がその人にとってどれほどの位置を占めるかにかかっているとしか言えません。しかし、はっきりと言えることはある。福音に応えることによって、自分は真に自分になっていくのだと。信従の中では、わたしはこの程度の人間と言う線引も自己規定さえ一切無意味になるほどの変化が起こるのです。

  

 主に同伴する人生とはそういうものです。何よりも主ご自身があなたと人生をともにしたいと切に願っておられます。予定調和のようなわけにはいかないかもしれない。しかし、主に従った人生にはこういう恵みがあった、こういう驚きがあった、こういう望外の喜びもあったという証ならいくらでも語ってみせましょう。神の国の到来を実際にリアルに味わってきた者なら、誰でもこう言えるでしょう。主よ、どこまでもついてまいりますと。