マルコ1章21節ー28節

             「権威ある言葉」

 

マルコ福音書によれば、これがイエス様の会堂でのデビュー説教です。会堂司の許可の下、話されたのでしょう。残念ながら、説教の内容については記録されていません。しかし、それ以上に際立っているのは、説教を聞いた者の非常な驚きです。教えに権威があったのです。比べられているのは律法学者です。律法学者の教えとは違ったのです。彼らとて一目おかれ権威はあった。しかし神の国の出現は従来の権威を引き剥がして、無化してしまいます。

  

私たちは既存のシステムに乗っかって生きる方が楽です。何も考えず、何も批判せず。いつの間にか慣習化したことを権威として受け止めている時がある。しかし、実際にはそこに閉塞感がある。生きづらさもある。諦観にも支配されている。だからこそ、全く別の次元の神の権威が現れる時、私たちは驚かざるを得ないのです。全く違う生き方が、考えが、道がここにあったのかと。今までの考えに縛られたままである必要はどこにもないのだと。

  

会堂で事件が起こります。悪霊に憑かれた男から悪霊が追い出されたのです。なぜ、悪霊憑きが宗教的な会堂にいるのか。信仰にはほど遠そうな生活を想像する。しかし、そういうものでもないのでしょう。実際は悪霊の影響で故に妙に宗教に凝っている場合もある。宗教好きな例もある。神がかり的に独特な宗教観に縛られることもある。ひとつ言えるのは、この男性は共同体の中では浮いている存在だったことです。迷惑がられていたかもしれません。

  

悪霊の働きとは疎外させることにあります。神から人を疎外させ、共同体から人を疎外させ。遠ざけるのです。共同体の方も面倒なので関りを避けようとしがちです。しかし、主は自分に関わるなと叫ぶ者に対しても、関わろうとして下さいます。誰とも関わりたくない、神とも関わりたくないという言葉に留まることを主は決しておゆるしにはならない。むしろどんな嫌われ者をも、交わりの中に回復させることがこの方にはおできになります。

  

興味深いのは悪霊追い出しを見た人々の反応です。彼らは主のわざに驚いたとは書いていないのです。新しい権威ある教えに驚いたと言うのです。マルコはこの奇跡は教えなのだと言いたいのです。もっと言えば主の権威とは、上から目線のものではない。どんな事情のある者にもしゃがみこんで仕えるしもべとしての権威なのです。しもべとして仕える時、そこにみわざは起こります。そういう教えだからこそ、私たちも喜んで聞いたはずです。

  

主の弟子である私たちも主からこの権威ある言葉を託されています。このわざは2000年前のカペナウムだけで終わらない。主の評判が付近に広がったとあるように、現代においても拡大していくもののはずです。たとえ、関わるなと拒否されようとそれでも関わらずにはおれない。放っておいてくれと言われようと、それでもしゃがみこまずにはおれない。あなたも主のあわれみの対象ですと。主の情熱に触れた者であるなら誰でもしもべとして。