4月22日 マルコ1章29節―34節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「礼拝の後で」

この礼拝が終わったら、皆さんは会堂を出るはずです。イエス様もそうだったことに親近感を覚えます。主も同じく安息日に会堂で神を礼拝し、会堂を出たのです。しかも礼拝では劇的なことが起きた。悪霊につかれた者の解放。目の前で目撃したペテロたちは興奮さめやらぬ気持だったと思います。私たちの先生は凄い。主よ、どこへでもついてまいります。改めて申し上げたかもしれない。今からどこへ行くのですか。何をお手伝いしたらいいのですか。

 

向かわれたのは意外な場所でした。ペテロよ、あなたの家に行く。おそらく会堂から歩ける場所に家はあった。想像して下さい。皆さんが礼拝を終わって家に帰っていく。日常に戻っていく。その時に主がこう言われるのです。わたしも一緒にあなたの家に向かうと。あなたの家庭がわたしの働く場所となり、神の臨在されるところになるのだと。どこか遠いところに主がおられるのではない。あなたのホームグラウンド。そこに主は臨みたもうのです。

 

ところで家庭とは平穏無事なところとは限りません。どこの家庭にもそれなりの問題はある。深刻な悩みもある。ペテロの家もそうでした。姑が熱病で床に伏せっています。礼拝も休んだはずです。彼女に主のいやしのわざが起こります。別に誰かが望んで主が家を訪れたわけではありません。主の側で、主の意志で、家を訪れて下さった。彼女は立ちあがった。復活にも使う言葉です。つまり、いやしだけではない。救いがこの家に訪れたのです。

 

それだけではありません。彼女はイエス様一行をもてなし始めます。病み上がりなら考えられない話です。完全ないやしを物語るとともに、彼女は主に奉仕する者となったと告げられています。仕え続けたのです。弟子になったのです。いやされて、よかっただけでは終わらない。救われた者は主のために奉仕したいと願う者なのです。主はあなたの家の問題を解決することができる。それだけではない。あなたの家庭から奉仕者を起こして下さる。

 

ところで奉仕するとはいいことばかりとは限りません。夕方になってこの家に人々が押し寄せるのです。主の悪霊追放といやしの噂を聞きつけて。働いてはいけない安息日が終わってから。ずいぶんむしのいい話にも思えますが、主はその要求を拒まれません。おそらくそのわざは深夜まで続いたはずです。それにしても舞台になったペテロの家にとっては迷惑にも映る出来事とも思えるではありませんか。おちおち眠れもしない。休めもしない。

 

奉仕とはそれに伴う厄介なことも引き受ける覚悟が求められます。しかし彼らはそれを厄介と思ったのだろうか。そうとは思えません。主に救われた喜びがあるなら、少々の犠牲もなんということはない。それよりもむしろ我が家で、こんな素晴らしいことが起きた。あの人が癒され、あの人から悪霊が追い出され。我が家が用いられ、目の前で多くの人の救いを目撃しましたという生き生きした証のほうがはるかに大きかったに違いありません。

 

今も主はあなたの家庭を用いようとしておられます。主があなたの家においで下さる。あなたの家が現場となって素晴らしいことを起こそうとしておられます。それはお願いなどではない。恵みとして主の側で自由に選んでくださる。なぜ我が家でという不思議なことが起こるのです。主の恵みをこの身に体験した者なら喜んで、使って下さいと差し出すでしょう。喜んで自分のできるお手伝いをし続けるでしょう。私たちは主の弟子なのですから。