4月29日 マルコ1章35節―39節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。 

 

 

「定位置」

今日、お読みするのは朝早く寂しいところで祈っておられるイエス様の姿です。祈って神の意志を問い、確認しておられる。昨夜、遅くまで続いたミニストリーは大成功を収めたのです。しかし、その興奮から、あえて身を引くかのように主は町を離れた荒野におられる。荒野とは主がサタンの試みに打ち勝たれた原点の場所です。意味深長です。まるで昨夜の宣教初日の第一歩が自分にとって誘惑になると言わんばかりの態度にも映るではありませんか。

 

私たちも思い当たる節があります。人生の誘惑は人によって様々です。立ち直れないほどの失敗や挫折がある人にとっては誘惑になることもあるでしょう。しかし、一方で、人生の成功がある人にとっては誘惑になる危険性も、いつでもあるのです。成功の中で我を忘れてしまうのです。イエス様がご自分の目的を確認するために祈りに力を入れられたのなら、時に私たちも退くのです。ひとりになるのです。神と一対一になろうと心がけるのです。

 

退かれた主を弟子のシモンたちが探しに来ます。みんながあなたを探しています。昨夜の興奮のるつぼを背景にその日も朝から人々が押し寄せていたのでしょう。なんとか対処して下さいという意味もあったことでしょう。あなたにしかできないことでしょう?なぜ、人々の期待に応えようとなさらないのですか。非難めいた問いかけにも聞こえます。しかし、イエス様に言わせれば、まさにそれこそが誘惑になるのだということになるのでしょう。

 

私たちも親切のゆえに人々の要求に応えようとする場合がある。求められれば応じようとする。困っていれば、助けようとする。しかし、いつの間にか、必要とされている自分に満足を得ようとしてしまう。相手の歓心を買うことに腐心しすぎてしまう。好かれることのみに心が傾いてしまう。これが期待にこたえることの誘惑です。そのうちに本来、自分がやるべきことがなんなのか分からなくなり、線が引けず、ずるずると流されていってしまう。

 

主は誘惑をきっぱりと断たれます。わたしはほかの附近の町々に出ていき、神の国の福音を伝える。わたしはカぺナウムには戻らない。カぺナウムからはもう出てきたのだ。わたしが来たのは人々の期待に応えるためではない。それ以上のことだ。主は自分に与えられた時間の限界を知っておられます。その限られた時間の中で神が意志しておられることを果たさないといけないのです。たとえ弟子には理解できなかったとしても主は進んでいかれます。

 

私たちも心しなければいけない。自分が本来、することはなんなのか。それはもしかしたら、相手の期待に反することなのかもしれない。かえって反感を買われることであるのかもしれない。そういう意味では周囲に理解されない道を歩む覚悟さえ求められる。だからこそ、ぶれることなく、愚直にいつも見つめます。わたしは神の期待に応えることだけに集中するのだと。当然ではありませんか。私たちもキリストの弟子として招かれた以上は。