5月6日 マルコ1章40節―45節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。  

 

「踏み越える」

病人とイエス様が出会う。それにしてはこの人の求めは奇妙です。「お心ならば清めていただけます」。なぜ、癒して下さいと素直に言えないのか。それは彼が重い皮膚病だからです。当時は宗教的掟が絶対だった社会。この病気を患った者は、あらゆる人間関係を断たれます。隔絶され、社会的に抹殺され、神に呪われた者として烙印を押される。そもそも人前にさえ出て来てはいけない。そういう意味で人前に出てきた彼は思い切った掟破りをしています。

 

私たちの生きる社会も、誰かの犠牲の上にシステムを安定させています。誰かの社会的生命を奪った上で何かを享受している。負のレッテルをはられ過ぎた者は、人前に出ていくのが恐ろしくなる。ましてやお願い一つできなくなる。自分のような者は何も望んではいけないと悲しい遠慮が出てくる。しかし、あるいはイエス様なら。多くの人の病気を癒したこの方なら。彼の勇気ある掟破りは、イエス様ならの一点に賭けたひたむきさからでした。

 

しかし掟破りを言うなら、イエス様もそうです。主は彼に触れるのです。当時のタブーです。触ると宗教的汚れが移るのです。しかし主は意にも介しません。掟破りの行為で彼はいやされます。汚れは移らなかった。むしろ、主の清さが彼の上に拡散されていく。今も主の手は延ばされます。教会こそ主の手です。主の足です。私たちが主の体です。教会はいつも常識とされてきた規範も踏み越えて、遠ざけられていた人に手を差し伸ばし続けてきました。

 

この主の心が理解できないなら、私たちも種々のタブーに縛られてしまう。あれをしてはいけない。これをしないといけない。ああいう人とはつきあうな。こういう場所には行くな。離れよ。まるで清さとは、何かと関りを断つことでどうにか保てるものであるかのような恐怖症。違います。主にある清さは、あなたを通して、どんな禁忌の壁を越えて、思ってもいない相手にまで拡散されていく。その恵みを大胆に信じるわけにはいきませんか。

 

それにしても主の命令は奇妙です。誰にも言うな。信仰とは伝えることが鍵のはずなのに。当時のしきたりに則って社会復帰の手続きを踏む以外は禁じられる。なぜでしょう。もっと重要なことがあるからです。自分の身に起きたことを神との関係において深めていくこと。わかる気がします。自分の身に信じられないことが起きたとしたら、その意味を深く問い、掘り下げて整理をつけるまでは、秘めたまま、なかなか人には言えないことはあるものです。

 

考えさせられます。直情的に自分の思ったままをただ伝えることが伝道になるのでしょうか。証になるのでしょうか。人は神の恵みの重みを受け止めた理解度に従ってしか、正しいことは言えない。その恵みは十字架の重みであることを私たちは知っているはずです。この恵みを決して軽量化してはいけないし、ありきたりの陳腐なストーリーに変換して消費してもいけない。恵みを何かにすり替えて浪費しているだけかどうか。真摯に問うてもいい。

 

人は神の恵みさえ、都合のいいものに変質させてしまう。それでは恵みとして与えられたはずのいのちの律法が、人間性を奪うシステムに変容してしまった当時と何ら変わらない。同じ轍を踏まないように、時には黙って、祈りつつ神の恵みをくりかえし思いめぐらすわけにはいかないでしょうか。そういうことだったかと深い気づきが与えられるなら、焦らずとも証の機会はやってきます。私がこの方から恵みを受けた事実は消えないのですから。