5月13日 マルコ2章1-12節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。  

           

「この言葉を聞きたい」

 

すきまがないほど家にあふれた人々。満員電車を思わせます。中心にいるのはイエス様です。あの言葉を、即ち福音を語っておられます。彼らの中には病の者もいたことでしょう。悪霊に憑かれた人もいたでしょう。彼らが聞きたい言葉だからこそ立錐の余地もないのでしょう。そこに事件が起こる。4人の人が中風の人を担架に乗せるなどして連れてきた。現代で言う脳梗塞の後遺症で動けないのです。連れてきたのは友達でしょうか。仲間でしょうか。

 

戸口まで溢れた人で中に入れない彼らはあきらめません。話が終わってから改めて?別の日に出直す?いいえ。彼らはとんでもない行動に出る。外階段から屋根の上へ。木と藁と粘土でできた当時の家の屋根をこじ開け、病人を主の真下につり降ろします。もちろん当時とて非常識です。なぜそこまで。どうしても聞かせたい言葉があったから。病人は本当に神に見捨てられた存在なのでしょうか。違うと言うなら、絶望している彼に聞かせて下さい。

 

今日は母の日ですが、信仰の生みの親という意味でなら、誰でも母のような存在になれる。この4人のように、イエス様のもとに連れゆける人にあなたもなれます。今の時代も人を傷つける言葉で溢れている。いのちの尊厳を奪う言葉を浴びる。問題そのものよりも、わたしを襲う問題に対する相手の心ない言葉が、人を打ちのめす。だからこそ、なんとしても聞かないといけません。神に見捨てられた存在の人はいるのか。イエス様、お聞かせください。

 

主はアクシデントにも冷静です。あなたの罪はゆるされたと宣言されるのです。罪深いから病気になるのだと信じられていた社会。日本社会にもある因果応報の考えにも似ています。しかし、この言葉に律法学者が引っかかる。聖書を解釈する教師です。イエス様という方はどうも律法学者のいるところで、彼らの気に障ることをあえてなさいます。戦うイエス様だからです。悪霊や病気と闘うだけではない。間違った聖書解釈とも戦われる主なのです。

 

神以外に人の罪はゆるせない。彼らの心のつぶやきです。批判は時に表立ってではなく心の中で、あるいは隠れたひそひそ話になるものです。しかし一見、彼らのつぶやきは間違ってはいません。確かに罪をゆるせるのは神だけなのです。しかし、それを言うなら、神しか罪に定められないはずなのに、勝手に病人を断罪したのは彼らです。人を神の国から占め出し、のけ者にし、救いから遠ざけ、それでもなんとも思わなかったのも彼らです。

 

彼らとてメシヤがいつか来ることをそれなりに信じている。しかしそのメシヤ像に罪のゆるしの権限はありません。ところがメシヤは待つまでもなく既に来ておられます。しかも罪をゆるす権威をもって。偉そうな権威ではない。仕える権威でおいで下さったメシヤ。社会が見捨てた者にも見捨てず仕えるために。罪の贖いのために自らのいのちを差し出す覚悟なしに、あなたの罪はゆるされるなど重い宣言ができるわけがないのです。

 

そう思うと、足の動けなかった者が歩き出す奇跡は、ただ不思議なことが起きたで片づけられることではない。イザヤ書35章で告げられた神の国到来の約束が今まさに目の前で実現している象徴的な出来事ですから。歩けと言うのも、罪赦されたと言うのも言うだけならどちらも易しいでしょう。しかし、実際に足が動いたのであれば、罪の赦しの結果です。それこそこの方が罪をゆるすためにおいでになった神である証でなくてなんでしょうか。

 

間違った信仰観は時に人を追い詰めます。人を占め出します。自分だけが真理を有している錯覚をしながら、神についての知識を独占しているかのようにふるまいます。しかし、天から降り、天に昇られた主がおられる以上、もはや天はいつでも開かれっぱなしなのです。何者かが締め出そうとしても、天の救いに招かれていない者など誰もいない事実は否定されない。ならば誰にも聞いて頂かないといけないのです。この救いの言葉を。