5月20日 ヨエル2章28-29節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「誰も見たことのない」

今だかつて体験したことのない、ひどいことが起きたら。預言者ヨエルの時代がそうでした。イナゴの大量発生。食糧危機をもたらすのです。2章では世界の終わりを思わせるような出来事としてさえ、描かれています。ただの自然災害のレベルを越えている。なぜこんな災いが。預言者の奉仕のひとつは人の個々の罪を指摘することです。しかし、ヨエルは具体的になんらかの罪があって、その結果、イナゴが大量発生したのだとは述べてはいないのです。

 

私たちの人生にも、理不尽なひどいことは起こります。長く生きてきた者であっても経験則だけでは対応できない事態にもぶつかります。理由が特に思い当たるわけではない。原因探しをしても、犯人捜しをしてもらちがあかない。なんらかの隠された理由があって神がこれを起こされたのだとしか言えないことはあるものです。時代としてはバビロンからの解放の後ですから、罪の裁きが終わり、救いがもたらされた時代のはずなのに。なぜ?

 

原因はわかりませんが、やるべきことだけははっきりしている。問題解決のために神に叫ぶことです。老いも若きも。宗教家も庶民も。子どもから花嫁花婿まで神の民全体が。ならば、こうは言えませんか。この災害は神に叫ばなくなってしまったことが原因なのだと。信仰が慢性化し、マンネリに陥り、なんとなく漠然と生きていたことが原因だと。そういう民が再び神を求められるように、神は問題を用いてさえ民の目を覚まさせようとされるのです。

 

経験上、確かに言える気がします。人生が祈りを生む。個人であれ共同体であれ、人生に起こる危機が、災いが、深刻な状態が祈りを導くことは覚えがあるものです。困難さが信仰生活に真剣味をもたらすのです。だとしたら、神に叫ぶことを忘れた民が、神に叫び出すことを始めたとしたなら。そこで神の目的はある面で果たされたわけですから、問題の大半は解決したも同然ではありませんか。そう思えば未経験の問題も深いところで恵みなのです。

 

しかし、それだけでは終わりません。叫びに答えるようにして神は予想外のことをして下さいます。問題の解決以上のことです。神の霊が注がれること。若い息子、娘は主の霊に促されて神の言葉を語る。失望していた老人は夢を見る。奴隷でさえも対象です。いいえ、神の霊の注ぎは無制限です。神の民だけにとは書いていない。すべての人にです。律法の外にいる異邦人でさえと言うのでしょうか。すべての人が関係する創造の根源にまで至る出来事。未曽有の災いのその後。未経験の未曽有の恵みの世界を主は用意しておられます。

 

これは旧約聖書の世界としては異例なのです。まるで神殿も祭司も、律法も民族の違いも相対化されてしまうほどの霊の注ぎ。今までの伝統も、階級も、価値観も無意味に思えるほどの刷新が圧倒的な神の霊の注ぎによって起きようとしています。まるで誰もが神に用いられる預言者として召されているかのような。リバイバルと呼んでいいのでしょうか。ペテロがペンテコステの日にこのみ言葉を引用したことも理由のないことではありません。

 

私たちもなんとなく生きている日々がないわけではないでしょう。情熱を忘れ、意欲をそがれ。そこに突然、不測の事態が起きたからと言って一環の終わりと思うことはありません。それでも神の民である事実は消せない。救いの民である事実は揺るがない。誰も見たことのない恵みの世界が起こる前ぶれがあるとしたなら、それは神を求める叫びが起こるところからでしかない。うえかわきがあるなら素直に叫びましょうか。主のみ名を呼ぶ者はみな救われる。主の御霊よ、来てください。