5月27日 マルコ2章13節―17節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「自由にされる」

すべての道はローマに通ず。ガリラヤの辺境の道も、その先にローマがある。取税人レビが道端に腰かけているのは象徴的です。通行税。今なら高速道路の料金所のブース。違うのは、巻き上げた税は、すべて敵国ローマが吸い上げる点です。今の税務署とはわけが違う。言い値を吹っ掛け、私腹を肥やし、人を苦しめる不道徳な仕事。日本人が稼いだものが黒い金になりどこかの国の兵器になると想像すれば。請け負う者は売国奴と呼ばれるかもしれない。

 

レビとはそういう人間です。ローマ版グローバライゼーションに組み込まれ、古代の新自由経済を信じ、神殿に仕える名前をいただきながら、弱肉強食の世界で、実は国民にも憎まれるものに仕えている。経済的には潤っていても、宗教的には汚れた人と烙印を押され、失ったものは大きかったでしょう。主はそういう彼に目を止めます。湖のほとりの大勢の群衆に囲まれながら、孤独なこの人にあたたかいまなざしを向け、声をかけるのです。

 

わたしに従いなさいとは、この巨大な経済システムの人間疎外から自由になりなさいという意味も含まれます。しかし主を信じる私たちも気を付けないとどこかでレビではないのか。経済を、繁栄を、成功を、力を、弱肉強食を信じ、一方で誰かを踏みつけ、主とは別の置き換え可能な記号を主に重ね合わせて消費するだけなら。主はチャレンジなさいます。わたしに従いなさい。あなたをそのとらわれから自由にしよう。彼は立ちあがって従った。

 

とはいうものの、彼の生活環境が激変したわけではありません。マルコによれば、彼は取税人の仕事を辞めたことは示唆されていません。ただ主と食事をともにし、仲間と宴を開くその交わりの中にもはや孤独の影はありません。日常は変わらなくても心の在り方が変わる。悪魔的な巨大なシステムの渦に対抗するのは、実は個人の心のありかたが変わり、生き方が変わる小さいところからです。端的に言うと神の国が彼に訪れたのです。

 

私たちの生活も主を受け入れた瞬間から少しずつ変化していきます。環境が激変することはないでしょう。いつもの日々を送りながら、価値観が変わりはじめます。福音にとらえられると違う生き方が生まれてきます。こんな生き方があったのかという喜びに包まれ、日常に出会う人と関わるようになります。誰かを犠牲にする生き方ではない。自分さえよければというのでもない。しもべとしてみずからを差し出す生き方に。主がそうであられたように。

 

しかし主がレビと食卓を囲んだことが、律法学者の逆鱗に触れます。汚れた者と食事をともにするとは。いくら病人を癒そうと悪霊を追い出そうとこの男が神のしもべであるはずがない。悪い印象のある律法学者ですが、彼らは律法を愛する者です。み言葉を深く愛している。真剣に生きようともしている。それなのにどこかに狭さがある。何かがずれている。まじめであろうとすればするほど宗教のシステムが誰かを排除する悲しい現実。

 

主は自由なお方です。ラディカルなお方でもある。その革新さはみ言葉をどうとらえるかの違いでしょう。律法をより深く鋭く、くんでいく。表面的なみ言葉理解ではなく愛であるか、愛でないかで問われる。人を救うはずの宗教がみ言葉を盾に人間疎外に加担するなら、排除された者は、違う人間疎外に組み込まれていくだけです。不道徳な者には不道徳特有の罪があり、宗教的な者には信仰理解固有の罪もある。主はそこを鋭く見つめられます。

 

医者が必要な病人に接するように、主はどこまでもしゃがみこんでいかれます。己の正義を貫こうとする者に神の真意は隠されています。わたしたちは主の足跡に従えるでしょうか。なれます。どこまでもしゃがみこもうとする主の愛をいただくなら。どんな不道徳な者をも包み込もうとする清い主の痛みと忍耐を自分のものとできるなら。私たちも、とらわれから解き放たれる。主は今日もささやかれます。わたしの生き方に従っていらっしゃい。