6月3日 マルコ2章13節―17節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。 

 

「新しさに生きる」

信仰的であるとはそもそも一体、どういうことなのでしょうか。主と主の弟子たちは、当時としては全く宗教的には映らなかったのです。パリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子が真剣に断食している時に、レビの家で宴会の喜びに興じているわけですから。好対照です。ある面から言うと、宗教的とは思えないふるまいこそが、周りの人が理解できない新しさだったとも言えるほどです。なぜ、あなたたちは断食しないのかと質問を浴びせられるほど。

 

私たちもそうかもしれない。実は信仰的であればあるほど、ある種の人からは非宗教的に見られるという非難はあってもおかしくはないのです。何かの宗教行為に熱心であるなら信仰的に正しいとは限りません。むしろ、主に従って生きることは時に理解されない独特な自由さを持っているということなのです。主のなさることは今でも、理解できないくらいに質的に新しいことなのです。こういう新しさの中に生かされていることを感謝しましょう。

 

イエス様はご自身を花婿と呼ばれます。この方こそ待ちわびた花婿であり、メシヤであり、救い主です。それなら、この方とともに歩むということは基本的には喜びの生活でないとおかしいのです。悲しみの行為である断食が、今、喜んでいる人に押し付けられるはずがない。要は、この方が自分にとってどういう存在かと知れば知るほど、喜びが増し加わり、信仰表現だって、変化していくのは当たり前の話ではありませんか。

 

信仰生活の喜びをたっぷり味わいもすることもなく、信仰生活の苦しみだけ強調されたところで、何か無理が出てきはしないでしょうか。むしろ、喜びが大きければ大きいほど、たとえ、つらいこと、苦しいことに巡り合ったとしても、今まで頂いた神との関係の喜びで乗り越えることができる応用問題を解くことはできるのです。神との関係が揺るがないからこそ、言われなくても、苦しいときはうえ乾いて真剣に断食の祈りでもしてみせましょう。

 

新しい衣装と古い衣装があれば、誰が新しい衣装を切って、古い衣装につぎあてたりするでしょうか。古い服は思い切って捨ててでも、新しい服を着ればいい。信仰とは、今までの考えに一部を付け足す程度では済みません。生き方も、考えも、行動も、何もかも新しくなるのが福音なのです。それは新しいブドウ酒のように、強い発酵力によって、破れ出ていくほどに勢いのあるものなのですから。

 

私たちがいただいた新しさとはこのようなエネルギーに満ちた新しさなのです。この世のどこにもない新しさ。しかも古びることのない新しさ。それは一度あらわれた以上、世界を根底から揺り動かし、チャレンジを与え続けます。生き方を変え続けます。私たちをどこまでも変え続けます。ならば、わたしの変化はここまででいいですと限界をつけてはいけない。主の恵みに浸って、どこまでも押し流されていけばいい。