6月10日 マルコ2章23節―28節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「安らかないのちを」

皆さんにとって大切な日はあるでしょうか。新約聖書の時代のイスラエルにとって大切なのは安息日という日でした。出エジプト記や申命記にまでさかのぼる戒めです。これは本来、神のみ前で休みを得て、安息を頂く恵みの日です。ところが、これがイエス様の時代は硬直化していく。厳格なパリサイ派の者が、仕事をしていないかどうかを監視して、事細かくチェックしていく。主の弟子たちの行為がこれにひっかかるわけです。

 

聖書の読み方について、今にも通じる問題意識を感じます。聖書は決して規定のルールブックではないのです。何が違反か、何が合法か。こういう読み方をしていくなら、どうしても狭くなっていく。どうしても硬直化していく。自分たちは大まじめのつもりでも、息苦しい雰囲気を作っていくのです。み言葉の真意をつかんで、そこからいのちをくんでいかないと、人を生かすみ言葉が、人を追い詰めるものに変化していってしまいかねない。

 

イエス様は、ダビデの例を出して、説明なさいます。ダビデ王と部下が祭司の供えのパンを緊急事態に食べて、いのちを得たこと。戒めを破ったわけですが、そのダビデ家から続く信仰をパリサイ派の人たちも信じています。主の仰りたいことは形式的に安息日を守ればいいということではない。人を規則で縛ればいいというものでもない。神が求めておられることは、人を生かすことなのだという宣言です。

 

律法の、み言葉と言ってもいいと思いますが、目的。それを知ろうとするには、律法が何を目指しているのかを知る必要があります。神がその戒めにおいて何を願っておられるのか。何を求めておられるのか。つまり神がどういうお方かを深く知ることなしに、意味をつかもうとするなら、間違った解釈や応用を生んでしまい、正義の名において人を責めて、かえって人を不自由にしていくこともあり得るのです。

 

イエス様は大胆に宣言なさいます。人の子は安息日の主です。人生から、安息を奪っていくような、ありとあらゆる規定、伝統、解釈。こういったあらゆるものと戦って下さるのです。心からの平安を得て欲しい。神の前での安らぎを得て欲しい。不安ではなく恐れではなく。表面的な順守で心はひとつも満たされない状態でよしとするのでもなく。それくらい主は誰の心にも安らぎをお与えになりたいお方なのです。

 

だからこそ、苦しむ者は主のみもとにいかないといけない。不安でいっぱいの者は主に近づかないといけない。あなたを休ませてあげようと約束される主の下で、休息を得る必要があるのです。いろいろなものに追い立てられる忙しい現代。何かで休息を得ようとしても、根本の解決にはなりません。休みたいのなら、礼拝へと主は招かれます。休むことを休む?必要がどこにあるでしょう。