6月24日 マルコ3章7節―12節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「現時点」

聖書には全て十字架の影がかかっているという言葉を聞いたことがあります。確かに今日のお話でもイエス様は死を意識しておられます。安息日論争がきっかけでパリサイ派に主への殺意が生じる。実際、主はこれ以降、6章を除き、会堂には近づこうとはなさいません。ところが十字架の死を意識するにしては、ここでの主は意外です。対決を避けて、海辺に退かれる。まるで、みっともなく逃げ回っているようにさえ映る描写なのですから。

 

イエス様はいつでも命を差し出してやると、悲劇の英雄気取りで生きておられるわけではないのです。むしろ、あいつ逃げたぞと噂されるようなみっともない姿をさらして、じっと時を待ち、伺っておられます。自分さえここで犠牲になれば、と無茶を考えがちな人に一考を促すかのようです。立派に見えても、ただのひとりよがりや自己満足にすぎない誘惑。ここであなたを用いるという神の迫りがあるまでは、焦らず冷静に時が来るのを待ちなさい。

 

もっとも海辺に退くのは、パリサイ派だけが原因でもありません。大勢の群衆がやってきたからです。もはや会堂にも家にもこれだけの人を収める空間はない。しかも、近隣の異邦人までもが押し寄せてきたというのです。あるいは、これはやがて全世界の民が神の民になるほのめかしではありましょう。しかし、主はあえて、群衆からも距離を置かれるようにして、湖の上に小舟を用意させようとなさいます。自分に押し迫るのを感じてとある通りです。

 

群衆心理というものを考えてしまいます。人が大勢いることは手放しでいいことなのだろうか。集団の中に個々人が埋没し、顔が見えなくなることはないだろうか。集団の願望が、一人歩きし、時に暴徒と化し、独特の熱気や狂気に包まれることはないでしょうか。その願望がいつでも正しいと言い切れるのだろうか。彼らは単に病気のいやしや悪霊からの解放を求めて主に殺到しています。そっけなく言うなら、単なるご利益信仰の域を出ないのです。

 

だからと言って、そういう信仰理解が決して無意味だと言うのではない。実際、主は彼らと距離を置きつつも、身体にふれられることを許容しておられます。現実にいやしのわざは起きている。主は浅いご利益信仰の次元にまで降りてこられます。もちろん、それは信仰がそこでとどまるのではなく、十字架を仰ぐ信仰の成熟へと至ることを期待してのことであったに違いない。しかし、現時点では群衆の無理解を黙って呑み込んでおられるかのようです。

 

こういう無理解がある以上、悪霊の「神の子」発言も真に受けてはいけない。悪霊は、間違った神の子理解を植え付けようとして叫んでいるだけに過ぎません。悪霊はうそつきなのです。十字架でみじめに死ぬメシアを証ししない以上、それを覆い隠させようとする告白に何の意味がありましょう。むしろ、異なるキリストで混乱させようとするなら、宣教の妨害でさえある。権威をもって、誰にも言うなときびしく黙らせるのも当然のことでしょう。

 

大切なのは、正しいキリスト理解です。一気には身に付かない。未熟で勝手な理解、他宗教との差異がわからない次元もリアルにある。それは実際に生きて働く主を総合的に知り、知情意の総動員で徐々に深まる理解。無理に模範解答を流し込まずとも、未熟な信仰の旅路に、全否定も、全肯定もせず、主は同伴したもう。高いハードルを設けず、主に従っていけばいい。自分なりの理解で。従いゆけば、その理解のままには絶対とどまり得ませんから。