7月22日 マルコ3章31節―35節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「新しい地平」

誰にでも家族はいます。主イエスにも家族はいました。クリスマスのストーリーを知る者には主に家族がいたことは耳新しい情報ではない。しかし、マルコ福音書ではここが主の家族の初登場。しかも21節にある通り、決して好意的な姿ではない。主が気が狂ったと思って取り押さえに来たのです。家族の在り方が多様化した現代とは違います。当時の社会は現代以上に家の制度が重くのしかかった時代であったことは理解したほうがいいでしょう。

 

私たちも家族に理解されない苦しみがあります。たとえ家族であったとしても生き方の違いですれ違うことは避けようもない。そのときに思い出さないといけません。主イエスもそうだったのだと。主も身近な者に理解されない状況を引き受けなさったのだと。家族であるだけで分かり合えるとは楽観的な幻想に過ぎないことを主は誰よりもご存知です。そういう主が無理解に悩むあなたのかたわらにおられることを励みにはできないでしょうか。

 

主はこう仰ります。わたしの母、わたしの兄弟とはだれかと。地縁や血縁だけで成り立つ世界を主はきっぱりと否定される。その狭さの限界を主は知り抜いておられる。問題は彼らが外に立っている点でしょう。実に象徴的ではありませんか。イエスの生き方が理解できないとして、主の中に入ろうとはしない。主の異質性を徹底的に排除しようとし続けている。しかし、問うてみてもいい。人を人として解き放つものは、案外、その異質性ではないのかと。

 

今の時代も信仰に対する風当たりは強い。身近な者から洗礼を反対される。礼拝出席を理解されない。ましてや献身しようと言おうものなら、理解されないかもしれない。信仰をもつにしても自分たちの理解の許容範囲までで。しかし、実は自分にとって相容れない価値観こそが、人を人として自由にしていく鍵なのではないでしょうか。自分の今までの生き方を脅かし揺すぶるものほど、実は自分にとってかえって必要だということではないのか。

 

神のみこころを行う者と主は言われます。神の御心を受け入れる者と言い換えてもいいでしょう。主がゲッセマネの園で、十字架の受難を受け入れた覚悟の祈りを彷彿とさせます。神の意志を受け入れることは人によっては苦しみであるかもしれない。戸惑いであるかもしれない。苦難であるかもしれない。しかし仮に自分の理解の外にあることであったとしても、恵みとして受け入れて欲しい。主の招きの言葉がここには響き渡っています。

 

もしも自分の理解できないことに対してノーを突きつけ続けるだけであるとすれば。その人の人生はいつまでも閉ざされたままで自己完結です。決してそれ以上、開かれてはいかない。下手をすると絶望で行き止まります。しかし主が差し出す苦き杯でさえも恵みとして飲み干すことができるならば。そこから必ず開かれていくでしょう。新しい地平が。新しい関係性が。新しい生き方が。ありとあらゆる閉塞感を打ち破るようにして生まれます。希望が。

 

教会は神の家族と呼ばれます。しかし、それは教会に地縁、血縁を中心に据えろということでは断じてありません。ある種の狭さを持ち込むことではない。むしろその狭さを超えて自己刷新されていく力が福音にはあります。教会には自分にとって好きな者も嫌いな者も、苦手な者にも居場所があるくらい自由に開かれた場であるのですから。そのチャレンジに答えようとする者は祈るのです。今受け取ります。その異質性さえあなたの恵みとしてと。