7月29日マルコ4章1節ー9節

 「挫折を越えて」

分かりやすさが求められる時代かもしれません。しかし、イエス様の言葉は謎めいています。主は多くのたとえを語られます。普通、たとえとは難しい話を分かりやすく説明するためのものではないでしょうか。ところが、主のたとえは、必ずしも明快ではありません。聴衆がいないわけではありません。おびただしい群衆が湖畔に集う状況なのです。しかし、彼らの多くは問題解決を主に求めているだけであり、決してそれ以上ではないのです。

  

私たちもはっとさせられます。すぐに答えだけを求めたがる傾向。即座に白黒をつけたがる心理。ネットを検索すれば何でも調べられる時代が拍車をかけます。しかし、もしかしたら人生にとって大切なのはなかなか答えが出ないことにあるのかもしれない。意味がわからないなりに忘れられないはっとする言葉に出会う。問うて求めて、長い時間かけて腑に落ちる言葉があってもいい。主の福音の言葉とはそういう言葉なのですから。

  

ここで語られるのは種まきのたとえです。ここには主イエス自身の伝道の働きの挫折が端的に語られています。福音の種をまいても、なかなか実を結ばない困難さを主は知っておられます。マルコは自身の教会の宣教状況をも重ね合わせて語っているのでしょう。鳥に食べられる種。石地で枯れる種。茨にふさがれる種。福音を聞く者はそれなりにいる。教会を訪れる者もそれなりにいる。しかし、主のもとを去ってしまう者は現実にいるのです。

  

これは私たちの現実でもあります。洗礼を受けてもいつの間にか教会を去る人がいないわけではない。病が癒され、悪霊から解放されても問題の解決と同時に主のもとを去る者は決して珍しくはない。多く時間を裂いたとしても裏切られることもしばしばです。伝道の働きとは実はむなしさを感じるほどに嘆きと挫折の連続であることを覚悟させられます。しかし、こうも言える。困難の多い人生。どうせ嘆くなら主のために嘆くのだと。

 

 これほど労多く、実り少ない働きなのに、それでも立ち上がるのは、主の約束に支えられてとしか言いようがない。30倍、60倍、100倍の実を結ぶ。当時のパレスチナの収穫率からはあり得ないほどの飛躍的な取れ高。当時の農法は種をまいてから、鍬が入ります。道端も石地も茨の地も、鍬が入るならば、実りある地に変化していく。福音そのものの持つ力と、種まく主ご自身のわざが、どんな硬い人の心も変えていく約束がここにある。

  

伝道の挫折。実り少ない悲しみ。主は誰よりもご存知です。しかしまかないと種は生えないのも事実ではありませんか。なぜですか、どうしてですかと嘆く祈りは現実にはある。しかし、主は励まされます。今はわからないことがある。腑に落ちないこともある。答えの出ない矛盾にもぶつかる。しかし、まかれた種は確実に思わぬところから、思わぬ時に意外な形で芽生え始めます。あきらめてはいけません。聞く耳のある者になりませんか。