8月5日 マルコ4章10節ー12節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。 

 

 「福音の前に立つ」

今まで秘密だった、素晴らしいニュースが情報公開されたら。そこには驚きが生まれますし、喜びも沸き上がります。主は神の国の奥義と言われます。秘密なのです。ミステリーなのです。それが主の手で解き明かされ、福音を信じる者がすでに起こされている事実が現実にあります。神の国が近づいたとの主の宣言の通りです。神の恵みの支配がもう始まっている。喜びに満ちた人生が起こり、弟子たちはそこに巻き込まれています。

 

驚くようなプレゼントが手渡された場面を想像してみたらいいと思うのです。まずはこんな値打ちのあるものを自分にですかと心動かされます。次にはやるような気持ちで、リボンをほどき、包みを開き、ふたを開けて、実際にこの目で見て、手に取ってふれ、自分のものにするはずです。味わうはずです。もっと言えば、得たことによって生き方も変わっていくはずです。神の国は、実際に自分のものにするように求められているのです。

 

従って、ほかの者たちにはすべて譬えで語られるとあるのは、神の国をあえて秘密のままにしてやろうとする主の意地悪心からであるはずがありません。そうではない。神の国の福音は信じてみないなら絶対にわからないということなのです。わかったら、信じてもいいという主張がまったく意味をなさなくなる。信じるか、信じないかだけが鋭く迫られていきます。信じたならば、わかってきます。信じるなら、秘密でもなんでもなくなります。

 

み言葉を受け入れるとは実際は緊張感を伴うものです。聞き流すことなどできない。いい話を聞きましただけで終われない。真剣に従う決断が求められる。神への主体的応答の前に立たされる。そういう意味では何の葛藤もなく、み言葉を聞くことはありえないのです。信じるなら従う。生の変化が起こる。その鋭さの前にある種の戦いが起こることは当然とも言えるのです。信じるとは単に説教を消費するだけの信仰生活とは明らかに違うのです。

 

主はイザヤ書6章を引用なさいます。頑化預言と呼ばれる聖句です。彼らは主の奇跡を見ています。病が癒され、悪霊から解放されるわざを見てはいます。また主の説教を聞いてはいます。福音の言葉をじかにこの耳で。しかし、それが実は神の国の現れであることについては全く悟れず、表面的な理解にとどまったままです。福音は伝えられても、なかなか信じようとしない現実の厳しさがここには反映されているのでしょう。

 

福音とは人の力では決して理解できない点で神秘ではあります。自分の力や頭や知恵でなんとかなるものではない。希望があるとすれば、イザヤ書6章の続きです。彼らがかたくななのは、ある時期までだと時間が制限されています。それは必ず心が開かれる時が来るとの励ましでもある。実際にそうです。自分の人生にあてはめてみてもわかるはずです。かつては無理解だった。以前はかたくなだった。悟りのにぶい者だった。

 

そういう者が今は主を賛美し、主を証しする者に変えられている。これが恵みの世界でなくてなんでしょうか。ありえないことがありえることになるのが主の力です。確かに人はどこまでもかたくなです。それを百も承知で、そういう者に、これでもか、これでもかとあきらめることなく、迫ろうとする主の恵みの熱意は今日も変わることはありません。自分の可能性が全く断たれたところからこそ、主のみわざは始まるのですから。