8月19日 マルコ4章21節ー25節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「シェア希望」

SNSの広がりによってシェアする文化が定着してきたようです。ルームシェア、ワーキングシェアの話もよく聞きます。分かち合うのです。灯りをますの下やベッドの下に置くなと主は言われました。つまり与えられた福音は人に分かち合ってこそ広がっていくのであって、独り占めしていい情報ではないというのです。誰にでも分かち与えないといけないほどの値打ちがあるのが福音だと改めて教えられます。

 

もっと言うならば、福音の値打ちを知れば知るほど、隠しておくことなどできなくなるはずです。むしろ秘めておくことが苦しくなるほど、喜びであふれている状態になっていくからです。いいや、誰かれ構わず伝えたい。もちろん、それですぐに理解していただけるか未知数であるとしても、聞く耳のある人には聞かせたい。誰かが分かち合わなければ、相手は知ることができない。その誰かがあなたでないとどうして言えるでしょうか。

 

隠れているものが現れる。秘密なものが明るみに出る。不思議な表現ですが、隠れん坊を思い出してもいいでしょう。隠れん坊という遊びは、見つけ出されることを求めて隠れているわけです。一見、理解できないような、この社会の中には見られない異質さが主の教えの中にあったとしても、生きることを真剣に探し、求めようとする人は、必ずその価値を見出し、やっと見つけたという喜びに包まれることでしょう。

 

いつまでも隠されているわけではない。いつまでも秘密のままではない。そんなもったいぶったものではない。確かに目の前にあるのです。すでに情報公開は誰にでもされているのです。ならば、今まで通りの生き方でいいのだと素通りしようとしないことです。閉塞感の中でうずくまろうとしないことです。実際、私たちだってあったはずです。見えていなかった世界が突然主によって見えるようになった恵みが。

 

隠されているとするなら、聞き方次第としか言いようがありません。量るはかりではかられる。即ち、自分にとって福音がどれほどの値打ちであるかの受け止め方は人によって差が出てくるのです。重く受け止めた者は、それにふさわしいコミットメントや応答や献身をするでしょう。しかし、福音を軽くしか浅くしか受け止めきれない者は、残念な生き方しか生んでいかない。そういう差がリアルに出るから、聞き方が警告されているのです。

 

しかし、福音を重く受け止め、そこに全生涯をかけて従おうとする者は、豊かにされていきます。用いられる守備範囲が広げられていくとも言えるでしょう。賜物の汎用性が高まるとも言えるでしょう。しかし主の迫りに応じようとしない者は、もともと与えられていた豊かなものまで枯渇していく。使おうとしないからです。本来、人は誰でも豊かなものが備えられています。それを使うか、隠すかの違いは大きい。

 

そもそも、福音を分かち合うという話でした。ならば、私たちは与えられているものを出し惜しみせず、それぞれの与えられた分量に応じて恵みを分かち合うことはできないでしょうか。これが自分に与えられた恵みですと、シェアするわけにはいかないでしょうか。霊的には被災地のような我が国。緊急サイレンが鳴り響いています。あなたの証を必要としておられる方が必ずいらっしゃいます。スルーはできません!!