9月9日 マルコ4章35節―41節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「向こう岸へ」

向こう岸へ渡ろう。主は言われます。向こう岸とはどこでしょうか。異邦人の住む土地です。弟子たちにはなじみのない場所です。宗教的に汚れたとされる土地。できるならいきたくない。関わりたくないところです。そういう場所へ主は弟子たちを導こうと言うのです。これは今まで話してきた神の国のたとえ話を地でいくことでした。福音は異邦の土地にまで拡大されないといけない。主のなみなみならない決心をここから読み取らないといけません。

 

私たちにもある体験です。別にこのままでもいいではないか。同じことを続けていればいいではないか。何も無理しなくても現状維持で。今までやったことのないことなどしたくない。変化を嫌うのです。ところが、主は教会が今までと同じ状態にとどまり続けることをおゆるしにはなられません。慣れ親しんだ状態を後にして、向こう岸へ渡ろうとチャレンジなさるのです。福音の拡大のために、あえて舟を漕ぎださないといけないことはあるのです。

 

ところが弟子たちが舟を漕ぎだしたとたん、湖を嵐が襲います。水が舟に溢れそうだったと聖書は言います。ガリラヤ湖の漁師だった弟子たちでさえあわてふためくほどの嵐だったことがわかります。ただ嵐のことが言いたいわけではないでしょう。ここは当時の宣教の困難さや心折れるほどの迫害の激しさを重ね合わせて読んでもいい。宣教とは決心して踏み出したなら、あとは順風満帆でしたというわけにはいかないものなのです。

 

考えてみると、こういう状況下、船尾で眠れるイエス様の方こそどうかしているとも言えます。しかも舟の中にご自分の枕まで持ち込んでさあ寝るぞと言わんばかりではありませんか。もちろん、これは一日説教をなさってくたくたにからだが疲れておられる主の姿をあらわすものでしょう。人としてのからだをお持ちの主。人の弱さや痛みをからだごと引き受けたもう主は私たちの弱さや痛みを決して理解できないようなお方ではありません。

 

思わず弟子たちは叫びます。先生、私たちがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか。私たちの心の叫びです。主よ、わたしがこんなに問題に苦しんでいるのに。わたしがどうなってもいいのですか。人生の中で何度叫ぶかわかりません。しかし、弟子たちは気づいてもよかった。主が眠っておられる船尾は、舟の中で真っ先に波をかぶる場所だということに。主が私たちの問題を真っ先に誰よりも大きく引き受けて下さる方だということに。

 

主のたった一言のみ言葉によって嵐は静まり、凪に戻る奇跡が起こります。私たちもあります。教会がこの問題に直面しないならこの奇跡は体験できなかった。教会がこの戦いに取り組んだからこそ、主のみわざを拝することができたという証し。ならば、ここで問われているのはただ不思議なことが起こってよかった程度のことではないはずです。問題を乗り越えるごとに信仰が強められていくことが起こるということなのです。

 

現に弟子たちは言ったではありませんか。この方は誰だろうと。イエス様に対する理解が深められていく。自分の枠の中だけのイエス様では収まりがきかなくなってくる。問題を乗り越えたことは確かに素晴らしいことには違いありません。しかし、それ以上に主への理解が大きく変化していくときに、同時に私たちの信仰も引き上げられていくことが起こる。それは向こう岸へ渡ろうと決心する中で、取り扱われることなのですから。さあ、向こう岸へ。