5月31日 第一テモテ4章11節~16節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「聖霊とともに進歩」

ペンテコステの日に耳を澄ませたいのは聖霊の働きです。聖霊が教会にどのように働くのかを見たいのです。これらのことを命じ、教えよと言うパウロは、明らかに御霊が告げることを伝える預言者のごとく語るのです。(1節) ただここで告げられるのは極めて常識的で倫理的なことです。「信仰」以外の点に関しては一般社会でも十分通じる徳目ばかりなのですから。なぜでしょうか。理由があるのです。間違った教えが流行していたからです。

 

間違った教えの特徴はどこかが過激であることです。何もかも間違っているとは限りません。なにがしかの聞く点はある。しかし、どこかが過剰なのです。どこかで急進的でもあるのです。彼らはそれを聖霊の働きだとさえ言うでしょう。果たしてそうだろうか。しかし、聖霊は決してそのような形ではお働きにはなられない。むしろたとえ未熟な若い者であったとしても、共同体の模範となるまでに変えられていく。それが御霊の働きなのです。

 

若き伝道者テモテの働きは、み言葉を語ることなのです。礼拝で聖書を解き明かす。パウロが命じる倫理的な勧めは、明らかに礼拝における説教と関係があるのです。説教で教えた通りに生きていく。目に見える形で教えが結実する。それこそが秩序の霊である聖霊のわざであって、異端と正しい教えを識別する試金石にもなるのです。信仰に奇をてらった過剰さなどいりません。信仰に社会のルールなど無関係だなどと逸脱する言い訳は通じません。

 

もっとも、み言葉を語る点に関して自分の力で語るなど到底不可能です。聖霊の賜物が必要なのです。それは教会の按手によって聖霊が臨むときに、リアルにわがうちに働き出すものです。み言葉をこの場の状況に鋭く肉薄させて語る、旧約聖書以来の預言者の霊の働きが新約時代のテモテにも確かに働いています。説教に限らず、聖霊の働きなしにどうやって神のわざを進められるでしょうか。だからこそ誰もが御霊の賜物を軽視してはいけないのです。

 

賜物は使わないといけない。隠してもいけない。なぜならそれは神の召しと関係あるのですから。行使すればするほど、汎用性は高まっていく。守備範囲も広がっていく。思いもよらない領域にまで越境もしていくでしょう。それは必ず信仰共同体と社会の益になる。すべてのことにおいて進歩があらわれるとはそういうことです。もちろん努力も必要です。しかし惜しみなく賜物を用いる者には御霊が奉仕の場を今以上に広げて下さることでしょう。

 

興味深いことに、御霊の賜物を行使することは、自分自身とあなたの教えを聞く者たちとを救うことになるというのです。どういう意味でしょう。聖霊の働きに身をゆだねるときに、間違った教えから守られるのです。何が正しく何がおかしいかを御霊が識別して下さる。ということはこうも言えるでしょう。教会が聖霊の働きを認めようとせず、無意識にでも締め出すときに、間違ったものから身を守る術までも失ってしまうのだとも。

 

誰もが教える賜物があるとは限りません。しかし信仰を頂いた者にはそれぞれ個性がある。それぞれが違う。ひとりひとりに聖霊が豊かに注がれる時、個性はそがれることなく輝きを増し、主にわが身を差し出す場面が与えられ、福音宣教と教会形成は進む。結果として間違った過剰な教えは色を失っていくのです。今の時代には今の時代の戦いはあります。だからこそ今日も求めます。ヴェニニサンクトススピリタス。聖霊、来てください。