7月5日 ユダ22~23節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「炎の中で」

人間は疑問をもって生きる生き物です。信仰の世界では揺るがない確信や信念をもって歩むことにも意味はありましょう。しかし、ユダは疑いをいだく人々の存在について語るのです。使徒たちが伝えた信仰と間違った教えとの間で揺れ動く人々です。疑問や疑いを持つことはそこまで悪いことでしょうか。自分の頭で信仰を考えようとするとき、揺れることは当然あるものです。疑うこと、揺れることを押し殺す必要はありません。

 

むしろ疑問が信仰の成長につながることはあるものです。しかしそれも程度問題で明らかに間違った教えに引きずられそうになるというなら話は別でしょう。そういう状態の方を共同体から切り捨てろというのではないのです。信仰の強い者ばかり集まった状態は何かが不自然です。信仰の弱い方をも包み込むようなあわれみが求められています。豊かなあわれみはただキリストからしかやってきません。

 

しかもそれは緊急性のあることです。危険な教えに惹かれることは、まるで火事の現場に取り残されているくらい、相手のいのちに関わることだからです。悠長なことなど言っておれません。相手を救出するために手を差し伸べることが求められています。その働きは共同体全体で何らかの形で関わることであって、誰かが単独ですればいい類のものではありません。祈る者、行動する者。支える者。救出劇は人手はいくらでもあったほうがいいのです。

 

逆から言うと、私たちの奉仕しだいで、間違った教えから救われる方が必ずおられるのだという約束と励ましでもあるわけです。実際、カルトと呼ばれる集団の極端さに気づいて、そこから脱することができましたというクリスチャンの証があちこちから聞こえます。特殊な集団にいる方は福音を受け入れるはずがないと勝手に決めつけてあきらめるわけにはいきません。あわれみ深い主は確かに働いておられるのです。

 

だからと言って決して油断してはいけません。肉に汚れた者の下着さえ憎むようにとあります。どんな教えでも構いませんと、一見物分かりのいい態度でいると教会が悪影響を受けて変質してしまいます。間違った教えと関わる中で知らぬ間に自分が感化されてしまう例もないわけではありません。己を過信することなく、慎重に、どこがどう間違っているかを理解し、識別を磨き、一線を画する態度が大切なのです。

 

そう考えると、どんな奉仕に立つにせよ、主のあわれみを求めないといけないのは私たち自身です。私たちの力でやりぬけるはずがない。私たちの意志だけでなんとかなる世界でもない。聖霊の助けが必要です。聖霊が必要な力と品性を与えて下さると信じて祈ることです。聖霊が臨むとき、自分の力以上の力で奉仕ができていることでしょう。大丈夫です。教会には御霊がおられます。聖霊は2000年間を貫く教会の霊なのですから。