7月12日 ユダ24~25節

こちらから説教を音声でお聞きになれます。

 

「目を上げて」

目を上げようとユダは促しているのです。目の前のことにとらわれすぎるのではない。遠い将来に思いを向けるのです。やがて天で神にお目にかかる時がやってくる。その時には私たちはこの上もない喜びに満たされることになるでしょう。逆から言うとこの地上には喜びだけではない、様々な葛藤があるのです。苦しみも困難も戦いもあるのです。天上で待つ喜びを支えに地上の歩みを突き抜けていく必要があるということです。

 

私たちの信じる神は、時間を支配なさる方です。終末の時にご自分のご計画を最後まで完成して下さるお方です。その完成はまだです。しかし、神の国の工事の槌音を私たちはあちらこちらで聞くのです。それはもう始まっている。つらいことばかりではない。苦しいことばかりではない。御国の働きのために参与したものは、やがて完成のお披露目の時には、自分の奉仕が無駄にはなっていないと喜びに包まれるのは当然ではありませんか。

 

最後に主にお目にかかれる。ということは、最後まで信仰を失わないように支えて下さるのは神だということです。守ってつまづかない者とするとある通りです。信仰から離れてしまわないように助けて下さる。私たちの中には最後まで信仰を貫く通す力などあるはずがありません。しかし、どんな困難な状況があろうと、主は一度救った者を最後まで導きとおすのだと宣言して下さっているのです。

 

それなら、自分はもうだめだなどと簡単に弱音を吐いていいはずがありません。無理と思ったところから主のわざは始まるのです。主が何度でも立ち上がらせて下さいます。自分以上の力で前に進めるように主が内側から働いて下さいます。もちろん激しい戦いはあるでしょう。間違った教えに混乱させられる状況が当時はありました。現在も似たような状況はある。しかし、あきらめることはありません。主が希望となって下さいます。

 

私たちはこういう主をほめたたえるのです。賛美するのです。私たちがなすべきことはどんな厳しい中でも主を見上げ賛美することです。栄光、大能、力、権威と並べられています。これらは本来、神だけのものでしょう。神ではない人間がこれらのものを奪い、わが物としようとするから社会は混乱するのです。つねに神にお返ししたいのです。これらは永遠に主のものです。キリストの救いによって私たちは悟ったのです。

 

賛美によって主に栄光をお返しする時。神はその賛美を受け取って下さって、思う存分、この地上でご自分の栄光を現わされるでしょう。いいえ、栄光も大能も力も権威も、イエス様の十字架と復活の中にすでに現わされました。主の十字架の力を否定しようとする人たちの前で、高らかに宣言するのです。ここに救いがある。ここに恵みがある。ここに愛があると。だから十字架を仰ぎ見て、この方をほめたたえるのです。