7月2日 ヨブ記19:25~27

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「ヨブ記」

ヨブ記は「知恵文学」「詩歌書」にあたり、

「知恵文学」それは、人間が最も困惑する重要な問いを検討する文学で、また「詩歌書」とは内容が詩の形式をということであります。ヨブ記が我々に問いかける事は「もし、神が公平で愛の方であるのなら、何故正しい人が、これほどまで酷く苦しむのを許されるのか」です。ヨブはお金持ちで、10人の子供らがいて、そして神を恐れ、罪から遠ざかっている素晴らしい人物でありました。ある日、主の前に神の子と共にサタンがやってきて、ヨブのことについて討論されます。「サタン」は、敵対者もしくは、告訴人という意味であります。世界中で一番正しい信仰の持ち主であったヨブを、裁き主に対して訴え、「人間には正しいモノなどがいない」という事を示そうとした訳です。サタンは「ヨブが神を恐れるのは、神様、あなたが彼を祝福し、彼が大金持ちであるからで、もしヨブの持ち物が打たれるのなら、彼は神を呪うに違いありません」主は「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」と言います。この時、ヨブが持っていた全ての家畜と、そこにいた若者、そして彼の10人の子供たちは、1日のウチに死んでしまうこととなります。神を呪うのではなく、正しく生きいたのに彼は罪を悔いたという事であります。神を呪うという事は、神から離れる事でもあります。しかし、罪を悔い改める。それは逆に神に向き直るのであり、ヨブはこの苦難の中、信仰を新たにし、神に立ち返ったのでありました。しかし、2章でサタンは、もう一度、主の前に現れ、ヨブの骨と肉を打つなら、きっと神を呪うでしょう。このサタンの訴えも、主は受け入れ、主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。そうしてヨブの体はサタンによって打たれた時、彼の「足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物」ができ、彼は全くの別人の様になってしまい、灰の中に彼は一人座り、彼の妻は「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」しかし、ヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」この様に、罪を犯すようなことは口にせず、信仰に留まり続けたのでありました。この様な状況が、ヨブ記の背景であり、友人たちは、「神に対して罪を犯した故に罰を受けているのであり、悔い改めなければ救われない」しかしヨブは、「この災いは理由なきものであり、私は無実である、この様な意見を彼は友人と共に、神に対して訴えかける。」こうしたやり取りがおこなわれているのです。そして最後に、ヨブは主に出会い全てを悟る事になる。それがヨブ記の全体像です。

 

ポイント1「後の日に立たれる贖い主」

私たち命を持つモノは、その命が尽きる個人的な終末は必ず来るのであり、また、この地上がいずれ無くなるといったこの世全体の終末も、その時は遠くないとも考えられます。その中で新約聖書のエペソ書では、聖霊を悲しませてはいけません。と語ります。では、聖霊を悲しませる事とはなんでしょうか?それは神から離れ自己中心的に生きる事であります。私たちは聖霊に頼る者として生きましょう。

 

ポイント2「肉から神を見る」

ただ、ヨブはそれ以上に大切で、人間にとって最も重要な、神との出会いを経験し、その経験により彼は、全ての答えを得ています。私たちは悔い改めにより、神を経験しましょう。