8月6日 創世記1:1~2

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「はじめの創造」

 

「はじめ」というのは、世界が始まる前の事を言っています。

私たちが居ない時に神が存在しており、その神が全部を創造したという事が創世記の最重要の神学であります。どの様な事でも、全て「はじめ」は重要であります。はじめが悪いとそれから、ずーっと人間関係が悪くなるのであり、はじめが良ければ、その後にも良い事を期待できる事です。では、人間の始まりは良かったのでしょうか?それとも悪かったのでありましょうか?答えは、非常に良かった「はなはだ良かった」と聖書は告げます。

人間の最初は、神の似姿であり、それを言葉通りにとれば「神のそっくりさん」として人間は生まれたのであれば、人間のはじまりは絶対的に良いものだったわけであります。しかし、現在の人間社会を見る時、何か良いものを見る事ができるのでしょうか?この様な世界にしたのは我々人間の仕業であります。ある人は、この様な「悪を良しとする」神が悪いという人がいます。神の御心とは、形がない所から、素晴らしく整った世界を完成する事であり、空しかったものに力を与えて、素晴らしい意味を与える事でもあります。旧約聖書神学では、神は正しい秩序を創造によって与えられたと聞きました。最初世界の状況は、ただの暗闇という事ではありません。暗闇と光のボーダーラインがなく、水と水の間にもボーダーラインはなく、土地と海岸の間にもラインはありませんでした。神は、最初の日に光あれと言う言葉によって、闇と光の間にボーダーラインを最初に引きます。

そして2日目に、水と水を分けられ、地上に人間が住める状況を作り、そして海の真ん中に地上を作り、海と地上とを、これまた分けられたのであります。これが、「はじめ」に神がなされた。神は御言葉により、世界に正しく、きちんとした秩序のボーダーラインができていたのであります。しかし、その後、最初の人アダムとエバは罪を犯してしまいます。それは、神の言葉によって引かれたボーダーラインを、彼らは破ってしまい、その世界の秩序の崩壊の危機でありました。その人の罪は、世界の呪いとなってしまいました。神との正しい秩序の中の「はじめ」には、神の祝福が彼らと共にありました。その祝福の中にいれば、永遠に生きれたはずでありましょう。しかし、神の御言葉の秩序を破る罪は、世界を創造前の光も闇もない、命と死、そして正しい事と間違った事の神が創造された良き秩序のボーダーはゆがめられたのです。神の正しい秩序があった「エデンの園」は天国に最も近い場所でありました。我々は、この「はじめ」の状況を取り戻す必要があり、その取り戻す方法こそが、子供の様なすなおな信仰に生きる事、大人の様に「忖度そんたく」を覚える事、空気を読む事、それが神の国に入る為の条件だと聖書は告げません。「こども」の様な信仰によって生きようではありませんか。自分自身が神によって創造されたという事を認めないという考えが最近社会には多いと思います。人間が偶然に生まれたのであれば、我々には何の価値もなく、自分の力で人生に価値をつけるしかありません。そこに我々の問題があるのではないだろうか。我々の中に神が居られない所から、私たちは憎しみ合い、喧嘩、そして戦争が生まれて来るのであります。神は我々をただ何も考えなしてはなく、神の創造は完璧であり人間は神の似姿で、全ての人が神の目に高価で貴く、創造されているという事を我々は認め、愛に生きる事は、神が我々に願っている事なのです。私達は、この神の愛に生きましょう。