8月13日 創世記1:3~5

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 「光あれ」

神は全ての光にも闇にも、境目のない状況、命と死の境目もなく、地上と海、空と地にもなんの境目がない状況の中、神は一番最初に、「光あれ」と言われました。その事が最初にあった、神の創造でありました。普通、我々は太陽がおもに地球に光と熱を与えており、科学的な視点では、小さい子供でもそう理解しており、大昔の人もそう考えていた事でありましょう。しかし、この最初の創造の光の源は、太陽ではないという事を聖書は告げます。

何故なら、太陽、月、星の創造は4日目なのであります。では、太陽を通さない光の創造の時には、どの様な事がおきたのでしょうか?太陽を通さない光の創造では、光と共に朝と夜が分けられました。

暗闇が水の上にあり、真っ暗闇の所から、1日目の「光」の創造によって、世界には暗闇以外の時間(朝と夕)、もしくは空間(朝夕、夏冬)、そして温度変化、視認性(形)の創造とも言えましょう。また、先週語った様に、昼と夜の創造、光と闇の間のボーダーラインが強調されている事が理解できます。この最初に創造された光、太陽を通さずに創造された「光」とは一体なんでしょうか?一ヨハ  1:5では、 神は光であって、神には少しの暗いところもない。とあり、他の箇所では、神は光をまとっているともあります。神は、暗闇の世界、混沌とした世に対し、ご自身の臨在の証拠となる光をもたらした。と理解する事もできるのかもしれません。しかし、神はこの時、完全に世界を光だけの世にはされませんでした。夕方、夜、朝があり、また全ての創造を見て、それが素晴らしかった。と告げます。暗闇がある世さえも神は、それが素晴らしい創造であったと告げています。夜が無ければ体も休まらず、また、気温をおさえる為には、夜が必要です。まだ他にもありますが、暗闇が深まっている時には、光の存在の重要さが際立ってくるという事でありましょう。こんな闇の時代だからこそ、神の光に出会った我々は、暗闇の中に沈んでいる人の前に出て行く必要があるわけです。私たち光の子とされた者は、人々の前で輝こうではありませんか。

神の存在が光であり、光をまとっているとも言われますが、最初に光が創造された意味として、全ての神よって造られる命が、光を必要としている事は間違いない所でしょう。ただ、最初の人間が罪を犯した所から、現在に至るまで、世はどんどん、神から離れ、形なく虚しいものを追い求め、神を信じない時代が今やってきている所であります。この様な時代でも、我々に希望があります。それはイエス・キリストを信じる者は、必ず神の光の中で生きるという事、それが私たちクリスチャンが持つ、希望なのであります。私たちは、イエス・キリスト希望の光信じ、この暗闇の世界の人々の間で、創造の時にあった神の光を放ち、唯一の神をわが光で証しするものでありましょう。