9月17日 創世記2:1~3

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「安息日」

今日の説教は「安息日」ついてであります。それは「どうして我々が日曜日に礼拝しているのか?」という事が今日の課題です。

「安息日」というのが今日のタイトルですが、創世記2章1節から3節には、「安息日」という言葉はありません。しかし、2節と3節にある「休まれた」という言葉の、名詞形が、「安息日」になります。「安息日」は、「休む」という言葉と同類という事です。ただ、安息日は、日本人の考える日曜日の休みとは違う意味を持っています。イスラエルの安息日は、金曜日の日没に始まり、土曜日の夕方までとなっており、これを守る事は律法で固く決められており、それを破ると石打で処刑された時代もありました。この安息日を守る事の意味は、創造主なる神を覚える事であり、全てのものが神にあって創造された事を祝う事、それに出エジプトで救われた事も覚える日であるそうです。そして、安息日を行う中で重要な事は、神と人との深い交わり、そして人と人の深い交わりが重要視されています。

その日には一切の仕事を止め、主の前に出るのであります。

この旧約的な安息日は、イエス・キリストの時代にはまた違った意味を持つ事になり、それは主イエス・キリストが安息日の前日に十字架に掛けられ、死んで3日目の日曜日に復活された事を祝う日となっていったのです。

 

第一のポイント「祝福」

神は七日目を祝福されたとありますが、「祝福」という言葉は、神様から人に対しては「祝福」と日本語で訳されていますが、人間側から神さまにも使われる時は「褒め称える」と訳されています。そして神の祝福には、人間側に「必ず何らかの変化をもたらす」と言われます。それは、ある時には、数が増える事であり(子孫や富)、またある時には、力が増す事でもあり、必要が与えられる事であり、きよめられる事でもあり、そして周りの人々に神の恵みを分け与える事でもあるのです。また、神を褒め称え、賛美する事も、人にとって最も大きな祝福であります。そして最も素晴らしい祝福とは、罪にあって滅びるはずであった物が、永遠のいのちに生きる事となった。これ以上の祝福はありません。私たちは、主イエス・キリストの十字架の恵みを今日も、そしてとこしえに褒め称え、感謝し、大胆に主の祝福を求めましょう。

 

第二のポイント「聖別」

神は安息日を「聖である」とされたと言います。それには二つの意味が考えられ、一つは「明るい」や「輝かしい」と言った意味と、そして「分離」といった意味もあります。神の聖別、それは俗なるものから区別される事です。そして我々が完全に俗なるものから区別される所には、神の栄光があるのです。その様になるたには、自分を自己中心的な罪から、聖別されなければならない訳です。ヘブル書4章11節でも、「わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。」と、天の御国に入る為に、我々は正しく聖別が求められています。

私たちは、永遠の命を得る者として神を日々礼拝し、自ら体も精神、そして霊魂をも聖別し、天国で完全な安息に入るに相応しく生きようではありませんか!