10月1日 創世記3:9~11

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「あなたはどこにいるのか」

創世記1、2章で理解する事は「神の創造は全て完全であった事、そして全てが美しかった事、人は全ての頭とされ、神の御心に適った形で支配させたという事でした。そうして完全な形である地上を神様は「産めよ増えよ地を満たせ」と祝福されたのでありました。

ある日のこと、最初の人の妻がエデンの園という完全な場所を歩いていると、野の獣のうちで一番狡猾な蛇が、話しかけてきたと聖書は語ります。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」ずる賢い蛇は神の言葉を少し変えて人に対して神の言葉に疑問を持たせ、そして、間違った答えに誘導させる様な神学的な言葉であるそうです。(哲学的)この誘惑する狡猾な者は、人の小さい心の隙間に忍び寄り、そして神の知恵ではない哲学で、人の心を神から引き離し、神から離れたらどうなるのだろうか?神の様な知識とはどう言ったものなのだろうか?と言った、神中心から自己中心的な心へと誘惑し陥れているのです。この安易な哲学的な言葉に我々は打ち勝つすべを持たなけれならないのです。

そうして、善悪の知識の木を人が食べ、神から人が離れた時に、エデンにあった完全な関係性の(系図)は、完全に崩れている事が理解できます。動物「蛇」が呪われた事を宣言し、動物と人との関係性も呪われ、そして男性と女性の関係性も完全なものではなくなり、この罪により土地は呪われ、我々、「人」の人生は喜びが中心であった生涯から苦しみが中心となっていくのです。何故なら、神と共にある事から人は離れてしまったからであります。

 

ポイント1「死か、命か」

創世記3章において、私たちは「いのちの木をえる」といいましょうか「いのち」というものを聖書はどの様なものであるかを語っていると思います。旧約聖書においては、「永遠のいのち」という考えは無かったそうですがしかし、「いのち」の持つ意味には、「生きる」や「目覚める」「リバイバル」「成長させる」それから「健康の回復」といった意味が見て取れるそうです。そして、最初の人が、その命から離れた時に、何が起こっているのでしょうか?「恥」得て「誉れ」を失いました、そして「恐れ」を得て「安心」を失っています。また「敵意」を得て「好意」を失い、「苦しみ」を得て「楽しみ」を失い、そして「呪い」を得て「祝福」を失ったのです。それらが神と共に生きるものが受ける「いのち」であったと理解できるのです。私たちはイエス様と共に生き、このいのちに歩もうでありませんか。

 

ポイント2 「誘惑か、信仰か」

だから、何を「読み、何を見、何を聞くのか」という事は非常に重要であります。

そう、人は神の御言葉ではなく、蛇の間違った「哲学」から、感覚的な誘惑に会い、その神からの戒めを破るという罪から自分を治めることが出来なかったのであります。私たちは聖書の御言葉にしっかり立ち、この哲学的な誘惑に勝利しましょう。

ポンント3「自己中心か、神の贖いか」

罪に歩む事、それは的外れと言われ、それは自己中心的に生きる事と言われます。そして神の命に生きるのには、他の命によって代償を払う必要があり、イエス様は我々の命の代償として、十字架に掛られ死なれたのです。私たちはイエスによって生きる者でありましょう。