10月8日 創世記4:3〜11

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 「カインとアベル」

カインとアベルの物語は、人類誕生の中で初めの殺人でありました。

この時に、カインは農業を営み、地の産物のものを主に持っていきました。そして、アベルは羊のこえた初子を神に持って行ったのですが、それは二人の礼拝の捧げ物という事でありましょう。この時に神はアベルの捧げ物を受け入れ、カインの捧げ物は受け入れませんでした。それは、羊が良くて、農作物がダメという事ではありません。それは、二人の神を礼拝する心の問題という事でありましょう。ただ、この時のカインの捧げ物(礼拝)を神が受け入れられなかった事に対して憤り、彼は取り返しのつかない弟殺しを実施していまいます。彼はその怒り、憤りの為に罪を治める事ができなかった訳です。この所で罪はまるで生き物かの様に告げられ、その罪に支配されたカインは、アベルの血を大地に流した時、この大地は「呪われた」と聖書は告げます。「呪い」とは、神から離れる事、離される事であります。まさに罪に支配されたカインは、罪を犯した故に、神から離される呪いの人生を送る事になったのです。

 

第1のポイント「正しく行う」

創世記4:7では「正しく行う」とありますが、それは相手を幸せにしたり、喜ばせたり、楽しませたり、そして思慮深く行う、という事が伴っている様です。その事から、神への捧げ物として、カインの地の作物を選んだ時の、カインの気持ちが正しかったのか?という事に疑問が残ります。イエス・キリストは、律法で一番大切な事は、主を愛し、隣人を自分の様に愛する事とあります。カインは神を愛し礼拝をしたのかもしれませんが、彼には弟を愛する心はありませんでした。カインの心はその点では正しくなく、またその礼拝を神には受け入れられるものでなかった事と理解できます。私たちは主を愛し、そして隣人を愛する、この最上の捧げ物を、主なる神に捧げましょう。

 

第2のポイント「罪を治める」

「治める」とは、「支配する」そして「統治する」といった言葉です。この時、罪は戸口で待ち伏せし、怒りと憎しみに支配されたカインを捕らえたのでありました。それでは、どうすれば「罪を治める」事ができるのでしょうか?それは「自分が自分の罪を支配するのでもなく、社会の秩序の支配に自分を置くのでもなく」自分を「神の支配に置く事」以外に自分が罪を治める事など出来ないのであります。

私たちはイエス・キリストを着、その神の支配の元で、神、そして人を愛する者となり、迫り狂う罪を治め、争いではなく平和を求める真の礼拝者としての人生を歩もうではありませんか。