12月31日 創世記15:1~8

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「信仰義認としるし」

アブラムはこの時、大分、大金持ちでありました。しかし、ハランの地(75歳から)出てやわら10年(85歳前後)、主の祝福の言葉を信じてこれまでやってきました。でも、現実は厳しく10年経っても、彼は子供1人授かっておらず、「大いに祝福される」という言葉が疑わしく感じられていた様です。皆さんは「信じる」それ簡単だわ。そう考えるかもしれませんね。しかし、「心から信じて、疑わない」というのは、簡単な事でしょうか?「信じる」と言っていって、「お金払います」「捧げ物します」と言ったモノや行為でもないのです。彼が主を信じたのは、夜の星空を見上げた時でした。アブラムが星を見上げた時、今見える現実を信じるのではなく、まだ見えてはいない主の約束を、疑わず信じ切ったその時、主もその心を知って、アブラムを義と認めたのです。

 

ポイント1「信仰義認」

私たちが神様に「義」と認められなければ天国にも行けないという事は、皆さんも理解しているとは思います。人間側から、この人は天国に行き、この人はダメだわ。なんて実際は言えないのです。人間が義と認めるのではなく、義と認めるのは神の御心なのです。

アブラムは、これまでの体験すべてを通し、神である主は、「私を完全に守る盾なんだ」と言う事を十分に理解していたはずです。その主に真っ暗な夜の星空の下に連れてこられ、この星数えられますか?「あなたの子孫はこのようになる」想像して見てください、星が迫ってくような満天の星空を見上げたアブラムの気持ちを。これら、すべてを造った主が、私に子孫をくださると言うのであります。その言葉に疑う余地が、あるのでしょうか?

これまですべての経験と共に、満天の星空の下、主の迫りの中、アブラムはこの時に主の御言葉を1mmも疑わないモノと変えられたのだろうと、私は思うのです。アブラムに約束されたモノは確かに素晴らしいモノでありました。しかし、私たちに約束されたモノは、実は、それは、もっと偉大なものであります。ただ、イエス・キリスト信じなさい、そうすれば「天の御国に入る事ができる」私たちは信仰によりイエス・キリストを信じるモノは、その御国に入る、「イエス様を信じると永遠のいのちを得る」1mmも疑わないという信仰によるからこそ、主は、こんな私たちでさえ義と認めてくださるのであります。

 

ポイント2「しるし」

旧約聖書で、アブラムは信仰によって義と認められたと告げられます。でも、人は弱い生き物で、何らかの「しるし」見たいと考えてしまいます。律法を守ったり、何か特別な行い、ましてや沢山献金したとか、奉仕を多くした、伝道沢山したからと言って、私たちは義とは認められません。私たちが義と認められたのだったら、神の御国に入る何かの「しるし」は無いのですか?ガラテヤ書5章には「しるし」とは、肉に生きるのではなく、御霊に導かれ「御霊の実」を結ぶ事だと告げられています。

私たちは、肉による生き方をするのではなく、御霊により導かれ、この「しるし」、御霊の実という「しるし」によって生きる者でありましょう!