1月28日 創世記18:11~21

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「とりなし」

 

今回は創世記18章です

今日の御言葉を挟む様に、2部構成になっている事が理解できます。

第一部は、3人の旅人がアブラハムを訪問し、その三人をアブラハムがもてなす中で、イサクが生まれて来ると預言される話し。その3人が、これからソドムとゴモラの地に行き、そこで滅びがもたらされ様としている、そう聞き、アブラハムがロトの事を思い、何度も執り成しをする。この二つの物語です。当時、アブラハムは99歳、サラは89歳でありました。強調する事は、彼らには既にエジプト人奴隷、ハガルが産んだ、イシュマエルを跡継ぎとしており、イシュマエルは既に13歳になっていたという事であります。その日アブラハムが天幕の前に座っている時、3人の人(御使?)が目の前に立っていたそうです。現代日本では、見ず知らずの旅人を家に入れ、食事で持て成すといった事はあまり考えられませんが、アブラハムが生きた時代の中東では、特に放牧をする人々は旅人をもてなすという文化があったそうです。そしてこの時の言葉は来年の今頃、妻のサラから約束の男の子イサクが生まれてくるという事であります。それから、3人はアブラハムの天幕から出て、ソドムとゴモラへと歩みを進めます。ソドム、ゴモラ全体の罪は極めて重く、滅びに値するのかもしれません。しかし、そこには愛する甥ロトが住んでいるのです。ロトも信仰的には弱い所もあり、神の目には完全ではなく、「滅んでもしかたない」その様な者であったのかもしれません。しかし、アブラハムにとっては、ロトは愛する甥であります。彼が滅んでしまう事に対して黙ってはいられないのです。 アブラハムはその時、50人の正しい者がいるかもしれません、いや45人かも、そして最後には10人だけしか正しい者しかいなくても、主は滅ぼすのですか? 主は10人だけの正しい者がソドムとゴモラにいれば、この地域を滅ぼさないと言い残し、3人はアブラハムの元を離れ、ソドム、ゴモラへと行かれたのでありました。

 

ポイント1 「アブラハムの仕える姿」

アブラハムにとっては、以前に通りかかった旅人とこの3人の旅人とは、同様にもてなしたと考えらます。その時、この3人を持て成すのに、とても良い牛一頭を屠り、3セアの小麦粉「1セアは7.6Lですから、22.8L」もの小麦粉からパン焼く、これは大変な量であります。それ程にアブラハムは、旅人を暑く持て成したのであります。彼は毎回この様にしていたのに違いありません。アブラハムは自分の天幕の所を通る旅人全てに、自分の出来うる最高のモノでもてなし、そして「仕えた」のであります。

私たちは教会であっても、日々の生活であっても、出会う全ての隣人に対し、神に仕える様にもてなし、そして仕える者でありましょう。

 

ポイント2 「アブラハムのとりなす姿」

アブラハムが3人の御使いに対し取りなしを行う、その姿を見ると、何と嫌になる程にしつこい所が見受けられます。その所で神と取引をしているのでありましょう。ただ、その姿を主なる神は喜ばれているのであります。私たちの神は、滅びゆく愚かな人々の命を惜しまれているという事でしょう。私たちは、アブラハムの様に祈る者でありましょう。