4月7日 出エジプト記1:15~21

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「創世記から出エジプトへ」

 

この出エジプト記は、創世記の続きでありますが、ヨセフの時代から400年も後の話しであり、エジプトの国内情勢は大きく変化していました。その時のエジプトでは、イスラエル人らが爆発的に増え、エジプトの王が人間の知恵で、イスラエル民族に対して苦役と迫害を加え、イスラエル人の人口を減らそうとしました。しかし、彼らの人口は益々増えるので、エジプトの王は男子をナイル川に投げ込んみ、人の知恵でコントロールしようと、産まれたイスラエル人の男子をナイル川で溺死させたといった出来事が語られています。

 

今日は、このイスラエル民族が奴隷としてエジプトの地で働いた400年強について、「神の祝福は苦難」ということを見て行きます。出エジプトは、アブラハムに約束された言葉の成就から始まります。それは、イスラエル民族の祝福の約束が、このエジプトの地で成就されたのであります。しかし、この時、イスラエルは祝福され、人口が爆発的に増加した結果、エジプト人らはそれを恐れ、彼らは迫害されていきます。なぜ主の祝福が、苦難となってしまうのでしょう。イザヤ書55:8 「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる。」この様に書かれております。私たち人が考える幸い、恵み、祝福とは財産が増える事、健康になる事、奇跡を経験するという事でしょうか?しかし、主の祝福というモノは、我々の考えるものとは全く違い、私たちの考えている祝福は違うと聖書は告げています。イエス・キリストは多くの苦難の末、呪いである十字架の木にかけられて死んだのであります。十字架の上の死は、完全なる呪われたモノの最後であり、人の中での最も最悪な終わりであります。しかし、神はその3日後に、このイエス・キリストを復活させ、この御子を天にまで引き上げたのであります。このキリストを信じ共に生きるモノが祝福であり、その信仰の歩みにより、私たちクリスチャンは主がおられる天の御国で永遠の命を得るのであります。その道こそが人間にとって最も幸な道であります。

 

マタイ5章の八福では、「心の貧しい人は幸いである」と始まり、「義の為に迫害されてきた人たちは幸いである」迫害されている「あなた」こそ「幸いである」と告げているのであります。何故なら、昔から預言者も、迫害を受け続けており、イエス・キリストも、その苦難の迫害の中生きたからであり、このイエス様に従うクリスチャンの苦難こそが幸いだという事を聖書は告げているのであります。だから、我々は義の道を選ぶ者は、苦難の中生きる事になるのであり、その苦難の道を歩むものこそ、神の目に幸いな者なのであります。

天の御国で「幸」なモノとして歩みましょう。